1. 「桜田門外ノ変」映画セット見学


  1. 藤田東湖と西郷隆盛
  2. 安政の大地震
  3. 安島帯刀
  4. 安政の大獄と桜田門
  5. 会津と水戸

ばらの花(2010.10.24 生田緑地ばら苑)

水戸藩と人物

幕末には多くの青年たちの活躍が目立った。一方、安政の大地震や安政の大獄で多くの人材を失った水戸藩、その後は徳川慶喜を立てて、幕府を支えるが、人材が既にいなくなっていた。また、薩摩藩や長州藩とも交流を深めていたが、倒幕を計画する薩摩藩や長州藩と戦うようになる。新撰組は京都を守るために編成されたが、倒幕を止めることはできなく戊辰戦争に突入した。戊辰戦争で最後まで戦った会津藩は多くの犠牲者を出した、水戸藩とはどのような関係があったのだろうか。そして、これらの日本を変える大きなエネルギーは何処から発生したのだろうか。青年たちの心から発生した改革だった。水戸に足を運びたくなります。

弘道館、大日本史、光圀義公 についてはこちらに詳しく紹介されていますので拝見させていただきました。

藤田東湖と西郷隆盛

  西郷隆盛の書物に次のように書かれているようです
藤田東湖先生はこう申されている。「小人は才能と技芸があって用いるに便利なものであるから、ぜひ用いて仕事をさせなければならないものである。だからと言って、これを上役にすえ、重要な職務に就かせると、必ず国を覆すようなことになりかねないから、決して上に立ててはならないものだ」と(参考文献1 p78 現代語に訳されてます)。
西郷隆盛は藤田東湖を先生と呼んで、江戸で何度か会っていた。そんな藤田東湖(水戸学者)は安政の大地震で江戸屋敷の下敷きになってしまった。
江戸時代の初め光圀義公は大日本史の編纂を開始し、明治になって完成している。その間、水戸学が生まれ、尊王攘夷と発展していく。

安島帯刀

安政の大獄と桜田門外ノ変

 2010.10.23 映画「桜田門外ノ変」を見てきました。友人や母校OBからの連絡でこの映画の存在をしりました。水戸にロケセットがあるというのですが、見に行けたらいいなと思いながら、撮影風景を想像しています。その襲撃シーンは映画の中では時間を割いて、かなり詳細に、鮮明にとらえています。雪の中を桜田門外で待ち伏せるところから、緊張のシーンが始まります。
 それにしても、今から150年前、30歳前後の人たちが、日本を救うという大義に人生を、命を掛けて生き抜いてきた姿に、大きく感動します。最後のシーンで、関鉄之助が捕らえられ、斬首、ここで涙がこみ上げてとまらなくなりました。
 その後、大政奉還までの数年間が省略されてしまい、その後の水戸、その後の幕府の状態がわからないまま、錦の旗の一行が江戸城に入ってくるシーンはあれれと、わからなくなってしまうところがちょっと不満でした。

 2011.5.3 映画「桜田門外ノ変」セットの見学に水戸へ行ってきました。映画のシーンが思い出されます。

映画「桜田門外ノ変」セットの見学

桜田門というのは内門と外門の2つあり、写真は内側の渡櫓門です。2007−11月撮影です。桜田門外の変は外門で起きたようなので、写真の場所とは違います。皇居を無意識に歩いていると、、内門にたどりついてしまいます。
桜田門(渡櫓門)

会津と水戸

会津若松城に上ると、会津藩時代の様子が詳しく展示説明されています。通常は写真撮影も許可されているようですが、5月連休は混雑(それほどではない)のため、撮影御遠慮の看板が出ていたため、撮影できませんでした。
会津藩は松平からの9代をいうようです。「徳川家への忠誠」を貫き京都守護職を拝命した会津藩主松平容保公、大阪から江戸に船で戻るときは徳川慶喜と一緒であった。会津藩御預の新撰組、水戸藩との関係、などを思いながらの見学です
会津若松市政だよりに会津藩と水戸藩は大変親しいものでしたと詳しく紹介されてました。

会津若松城(2008-5月撮影)、再建されて現在の形になってますが、7階建ての時もあったそうです。
会津若松城 会津若松城

参考文献

(1)稲盛和夫「人生の王道」日経BB社 2007年
(2)水戸黄門ホームページ
(3)会津若松市政だより
(4)水戸学・水戸幕末争乱